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【取材記事】そこに住む人たちとなにをしていけるだろう

主催:ー
応援市民:中崎史菜

今回は、富山県富山市出身でライターとしてお仕事をしていらっしゃる中﨑史菜さんにお話を伺いました。富山在住ライターとして、あちこちで活動なさっている中﨑さんのライターとしての初仕事は南砺市でのお仕事だったそう。中﨑さんが富山にUターンしてこられて約1年半。地元・富山に対する考え方に変化はあったのでしょうか。

<プロフィール>
中﨑史菜
1992年、富山県富山市生まれ。慶應義塾大学文学部国文学専攻卒業。2018年に3年間勤めた会社を退職後、フリーランスに。Webメディア「をかしなカンヅメ」の制作やイベントの企画など、活動の幅を広げている。

小さいころから好きだったのは書くことでした

―――今、富山ではどんなお仕事をしていらっしゃるのか教えて下さい。

その月によってウエイトが違うんですけど、先月一番時間をかけたのは、東京の某商業施設と富山がコラボして作ったフリーマガジンの制作ですね。富山県内のあちこちを取材して、南砺市内の井波や福光にも行きました。今月で言えば書籍の執筆ですね。富山にいながら、東京の会社の仕事もできちゃうので、東京の出版社からも仕事をいただいています。

―――ライターというお仕事はもともと目指されていたんですか?

私は文学部だったんですけど、大学や学部を選んだ時は書くことを仕事にしようとは思っていませんでしたね。自分の入れそうな大学を選んで、高校の授業で言えば国語が好きだったので、文学部を選びました。でも、漠然と書くことは好きだったので、最初に勤めた会社を辞めた時に、自分が仕事にできそうなことは書くことしかない、と思ってライターになりました。

―――富山に戻って来られる前は東京にいらっしゃったんですよね。

大学進学を機に上京、卒業して、そのまま都内で就職。入社した会社では営業を3年間しました。営業の仕事も楽しかったし、チームメンバーも良かったのですが、このまま60歳まで会社員として働き続けるのが想像できなかったんですよね。以前から起業したいとは思っていて、会社に行きながら起業セミナーに行きだしたりしたんですが、ある時、このままだと今の状況をだらだらと続けていくだけになってしまう、と気づいたんです。そんなタイミングで、シリコンバレーで起業している富山出身の方と出会って、3ヶ月渡米することになりました。

―――都内からUターン、の前にアメリカに行っていらっしゃったんですね。

アメリカに行っている間に、自分の進路を決められると思っていたんです。だけど、そこで色んな人生の話を聞いていると、なおさら迷ってしまいましたね。アメリカにいる日本人って、やっぱり尖っている人も多くて、話を聞いているとすごいと感じるんだけど、でも、自分がその人達と同じ選択をするわけではないから。そんなもやもやを抱えたまま帰ってきました。

―――ということは、その時には、「地元」とか「富山」という選択肢はそんなに強くなかったんですか?

帰国した時に、東京にもう家はないので実家に戻ってきた、というのが正直なところですね。帰国してすぐ出会った方のご縁で、南砺市でのお仕事を頂いて、それが独立して最初の仕事になりました。

外に出て見直せた「地元・富山」

―――もともと富山に対してはどんな風に思っていらっしゃったんですか?

富山を出るまでは、富山といっても家と学校の往復くらいの狭い世界しか知らないのに、それがすべてだった。そこに特別な思いがあるわけでもなくて、大学は絶対県外に行こうと思ってましたね。でも、そうして県外に出てみると、それがすべてではないと富山を客観的に見られるようになりました。富山出身として他の地域の人と話していくと、富山について話すことも増えて、そのうちに「富山プライド」みたいなものが確立された気がしています。

―――富山を出て初めて「富山出身」が他の人との違いになっていくんですね。富山でお仕事をし始めてからはいかがですか?

他の地域の人に富山について話したいと思っても、気づくと出てくるのは食についてばかりで、文化や歴史については知識が全くありませんでした。だけど、富山で仕事をし始めてから約1年半で、取材の中で知ったことはたくさんあるし、富山の中にこんなにおもしろい人たちがたくさんいるんだと気づけました。

―――富山でイベントも開催されたとお聞きしました。

2019年、南砺市福光の観音町で「をかしなFestival」というイベントを開催しました。ダンスや音楽、地元の食を楽しみながら、新たな“なにか”に出会ってほしいという想いで始めたイベントです。独立してから、南砺市では多くの出会いがあったので、たくさんお世話になっている南砺市に少しでも恩返ししたいという想いで関わっていました。

―――これから富山とどのように付き合っていきたいと思っていらっしゃいますか?

それはこの1年半、ずっと考え続けてきた問いでもあります。以前取材した方から、「仮に、土地の風土はそのままで、富山県と福岡県の人だけが入れ替わったら、中﨑さんの故郷はどっちだと言えますか?」って聞かれたんです。それを聞いた時は即答できなかったんですが、結構真理かもしれないと思いました。

―――自分の故郷と言っているのは、そこに住む人なのか、その土地の環境なのか、ということですね。

そうなんです。こう考えると、富山の持つ風土はとりあえず二の次で、そこにいる人たちが大事だなと、今の自分は感じています。だから、私は富山の人たちと何をしていくのかを考えていきたい。

―――今、富山の人たちとやっていきたいと考えていらっしゃることはありますか?

具体的なものはまだ見えていないんですが、新しい動きをした時に応援し合える雰囲気を作っていきたいな、とは考えています。富山で新しい動きをし始めると、理解してもらえなかったり、踏襲してきたものが強く残っていたりして、やりづらい部分も多いと感じます。こういうことをしてみたい、という思いを持っているけど、どうしたらいいかわからない人って結構多くて、そういう人の第一歩を踏み出すお手伝いをしながら、富山の新しいことに対する雰囲気も変えていけたらいいなと思っています。

故郷・富山での取材やイベント開催を通じて、人との関わりが鍵となっていたと話してくださった中﨑さん。その土地に生きる理由が、単に「出生地だから」「地元だから」というものだったとしても、結局関わっていくのはそこに住む人。ご縁で人の輪が広がりつつある中﨑さんのこれからの活動を思うと、とてもわくわくします。